批判だけで「代案」の無い人は無視?それとも代案不要?

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非常に面白い観点で2つのブログを発見した。ちなみに上記はネットの無料素材で最も多く使われている、という某氏。

 

一つ目:批判だけの人はダメー!

情報源: 代案を出さない「ネガティブな人」とは付き合ってはいけない

基本的に物事を否定し、建設的な話し合いが出来ない人とは付き合わない、という趣旨。

何となく以前に書いたアイデアキラーに通ずる部分です。

否定ばかりする人といると疲れるし、大抵物事が前に進まなかったりする。

いい言い方をすれば慎重、ということにもなるのだが、大抵の人はこの慎重という分類よりただネガティブな場合が多い、というのが体感。

また、恐らくは本人の性格や行動によってそういう人たちが周りにいる環境を作り上げているであろうことも大きいとは思う。

 

二つ目:「代案を出すべき」は面倒な人への対処

批判をするなら代案を出せ」は面倒な人への対処ツールにすぎないのでルールのように扱わないほうがいい

こちらは批判をするなら「代案を出せ」というのは方便みたいなもので、ダメなものは議論の余地なくダメですよ、と言っている。

そう、代案を出せは提案者に対しての感情的な納得を与えたりするものであって、ダメなものはダメで却下、という至極合理的な判断なのだが、否定だけされるとバツが悪いとかそういう事なのだろう。

こちらの記事にも納得。

どちらも相反してない

これらを見て面白いなーと思ったのは、一見逆のような事を言っているように見えるが、その実、どちらも相反していないんですよね。

こういう記事を見かけると、代案を出さない否定はダメだ!と思い込む人と、代案なんかいらないダメなものはダメ!みたいに捉えてしまう人っていると思うのですが、物事ってもっと1,0のデジタルでなく多元的に捉えないといけないんですよね。

恐らく、このように物事を多面的に捉えられる事が出来る人とそうでない人の差というのは生まれるのだろうなと思う。

良くありがちなのは友人からある事柄に対して一方的な事を言われてそれを鵜呑みにするかどうか、と言うことがあるが、これなんかは一つのいい例だろう。

結局は色々な情報を得て、自分の頭で判断する、と言うことが重要なんでしょう。

 

まあそれにしたって自分の事となると客観的に見られなくなるのが人間で・・・

精進!

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