教育を考えると現行の教育だとダメだってすぐに気づく・・・からどうしよ?
|今日こんな記事を読んだので、少し教育について考えてみる。
「子どもの好きにやらせて!」 5歳で英検2級に合格した少年が、大人たちに苦言
引用元: 「子どもの好きにやらせて!」 5歳で英検2級に合格した少年が、大人たちに苦言 | ログミー[o_O].
能力を伸ばす
これを見て真っ先に思ったのは仏教をイム教(いむきょう)と読み、猫を英語でニャーという甥っ子の事を思い浮かべた。
上からも分かるように、いわゆる「学力」というものは皆無に等しい甥っ子だが、特殊能力がある。
日本の47都道府県をその形を見るだけで、名前まで当てられるのだ。
実際47種類しか無いから、百人一首を覚えたりすることを考えれば容易なのかも知れないが、自分からするとハードルが高いし、何よりやりたいと思わない。
だが、当時の彼は小学校くらいで覚えて今に至るまで忘れないでいる。
恐らくものすごい集中力を持って当たったのだろう。恐らくやっているときは楽しくて仕方なかったに違いない。
ただ、全く勉強は出来ない。
これをテストとか学力、という物差しで測ると彼は恐ろしく低レベルだが、頭の良し悪しであれば別に悪くないのだと思う。
上のサイトの中でもミニカーにはまっている、とあったけどこれも一つの能力。
というか、集中力ってのは誰もが持っているんだけど、興味関心を惹かれるものがあったか無かったか、出会えたか出会えなかったか、で発揮されるかが大きく左右される。
じゃあこの能力が何に使えたの?と言われると疑問ではあるが、一つの物差しではなく図る事で甥っ子の価値・評価みたいなものはいくらでも変わったと思う。
多様な価値観で多様な能力を伸ばす環境が求められる。
そもそも教育とは
そもそも教育とは?って事で考えてみる。
日本の教育はさかのぼれば、素直な兵隊を作るためのものが土台になっている訳で、突出する個が許されないのだ。
また「かくあるべき」と教育システムを作った人間たちが思い込む人間の理想像に近づけるものであって、基本押し付けなんですよね。
簡単に言うと、儒教の精神に基づいた人間性が求められている。
人の上に立って導いてくれる人は聖人君子で人間性もしっかりしていて、という像を刷り込まれている。
でも現実社会においては例えば経営能力に秀でた人は人間性に欠陥がある、みたいなことの方が多かったりする。
まあそのそもそもこの「人間性に欠陥」という欠陥の価値観自体が刷り込まれているものであるのだけれども。
います。そりゃたまにいます。全てを兼ね備えた人が。突出した能力と人間性を兼ね備えた人が。
クリスチアーノロナウドみたいに天は二物も三物も与えたような人間が。
ただ、一つの能力に特化すると他の能力が疎かになる、これはこれで仕方ないと思うんですよね。
良く言うのが高校生くらいで、既に水商売風の外見の子から正に瓶底メガネでガリ勉みたいな子たちが同世代に共存してる。
これはすごく簡単な話で、例えば生きてきた16年間において、彼ら自身がどこに興味関心を持ち、力を注いできたか?というだけの違いなんですよね。
俗に外見が整っている子は頭が悪い
瓶底メガネは外見に無頓着
スポーツをやっている人間は・・・
と色々とあるが、要は同じ16年間での時間配分の差、だけなんですよね。例えば瓶底メガネが大学生でコンタクトに変えてあか抜けて可愛くなって、とか当然の流れなんです。
物差しが一つなのが問題
要はこの途中にある物差しが大学を頂点とした学力しかない事が問題な訳です。スポーツも一応一つの物差しには成り得ますかね。
なので、もし東大を頂点とした大学受験で考えれば東大は一学年3,000人しか行けない狭き門。その他中堅大学を入れれば数万人がいわゆる学力の物差しの中で優秀とされるとすると・・・
その他の約320万人ほどはそこから脱線する訳で。となるとどうなるか?
アドラーによると、子供はまず特別に「良く」あろうとする。ただ、「良く」あれなかった場合、特別に「悪く」あろうとする。
これは本当にそうだと思います。
学力についていけなかったらどうなるか?特別に悪く、いわゆる不良・ヤンキーになっていく。今だとひきこもりなどもあるかと思う。
上記の数字からすればそもそも学力の物差しで図った場合には優秀、という扱いを受ける器がキャパオーバーというか、成り立つはずが無い訳で。
そうなると、自己肯定感の低い人生を歩まざるを得ない人が多くなる。決して傑出した能力が無い訳でも無いのに!これが非常に重要な点。
上記甥っ子のように誰かしら何かしら能力を持っている!でもそれに気づく事も出来ない。また、持っていても磨いていたりしない。
ただ、もし価値観が多様になれば、それいいんじゃないの?やってみたら?という環境が増えてくれば、
自分が持っている何かを見つけ出せる人は増えると思います。
なので大学受験というレールから少し脱線した人、世のシステムの非効率を認識した人は別の道を歩んだりする。
中小企業の社長は結構高卒だったり、学歴が無かったりすることも多い。(逆に学歴にコンプレックスがある事で頑張れている人も多い、と聞く。)
ただ、せっかく当時そのレールから外れ、メリットを享受したのに、子供には大学に行かせたりするケースも少なく無い。
当然、自分がその点で苦労した事を苦労させまい、という気持ちから、というのは分かりますが。
なので、ここで述べたい事は多様な価値観を受け入れること。変わってる奴、変な奴を許容するような社会。無秩序、という事では決してありません。
逆にそうでないと、すぐに社会不適合者のレッテルを貼られて、常識というレールから脱線してしまう。
そして突出した才能はつぶされてしまう。もっと飛び抜けて優秀な人はたくさんいるはずなんですが、それが出にくい社会になっている事は間違いない。
日本からマークザッカーバーグが出てきてもいいはずなんですよね!
教育に生きる!ん?
じゃあ現行の教育システムの中でそういう人材を育てる事が出来るか?
非常に優秀な人たちが心血を注げばそういう教育は出来るのか?
人気ブロガーちきりんさん「教育に関心があると言い出したらその人はアガってる」
上記のような視点も確かにあります。確かに教育に興味がある、という人はもしかするとイケてない人が多いかも知れない。
塾・予備校業界なんて社会性の欠如した、ちょっと先生にも似たような体質の人も少なく無い。
ちょっと、自分が優位に立てるような存在に接する、という観点を持っている人も多いかも知れない。
もちろんそうでない人も多くはいると思いますが・・・
熱血だが無能な先生。冷めているが優秀な先生。どちらがいいのか?
清廉潔白だが、実行力の無い政治家。不正がありながらも実行力のある政治家。どちらがいいのか?
生徒は先生を選べない訳で、だからこそ教える側に立った人間は自己研さんを怠ってはいけない。
真摯に常に自分を見直す事が出来なければいけない。と思います。
自分自身は確かに自分の能力が色々と足りない、というのは十分すぎるほど分かりました。
なので、もう周囲の人に助けてもらって生きていくことに決めた訳です。
もちろん自分の成長を諦めた訳ではありません、これからも進化していくよう努力します。そんな事は大前提なので取り立てて言う事でも無いですが。
そして、上記を実現する方法として、優秀な若い人に出資してその人たちが成長していって逆にサポートしてもらう、という事を将来を考えています。
また、自分が本当にやりたこと、それを実現するために大学なんかも行かないでいいのでは?という多様な価値観と道を提示してあげたい。
恐らく、しなくていいであろう回り道をする人たちをショートカットさせてあげる事は出来ると思っています。
で、これは現行の教育システムという事で考えれば考えるほど、成し遂げられない事が多くあると分かる。
だからと言って現行の教育システムを変える、という事ではありません。
これには多大な労力と時間がかかりますし、そんな事を目指しても不可能、ないし非常に非効率だと考えています。
なので、現行のシステムの外側に新たなシステムを作っていく必要があるかと思っています。
またこの新しいシステムに関してはしっかりと考えて後日書いてみたいと思います。
また、記事更新もやる気が出ますので応援していただければ幸いです!